防腐学上の奇跡---保存が完全で良好な二干年余りの古死体(pp158--170)
古代の搾取階級は、死んだ後に霊魂が天に昇ると幻想したばかりでなく、白骨が永遠に朽らず長く冥福を受ける事をもくろみ求めた。彼らは、玉石が屍〈死体〉を冷たくすると迷信し、種々の不思議な神話を作り出した。これによって、金持ちは埋葬時に、いつも胸部あるいは背部に玉璧を置き、口の中に玉石の屑を含んでいて、鼻孔と両耳は玉石の粒を用いてふさぎ、さらには、目の瞳にも玉片を用いて覆いかくし始める。漢代の皇帝は、もっと奇想天外であり、玉片で衣を作り埋葬に着ている。ただし、過去の考古的発掘中に発見した玉衣を以て納棺したものがあるが、決して完整な死体を見られなかった。一九六八年、河北省満城で発鋸した前漢の中山靖王劉勝と彼の妻の、穴にわがねる〈細長い物を結び輪形にする〉墓では、二揃いの金糸を用いて編みつづった玉衣を発見したし、穴のつなぎには、なお玉を散りばめた漆棺を使用したが、幾つかの残歯以外は、死体の骨が、かえって既に無くなってしまっていた。玉石が死体を保持でき、死体が壊れないのは、ただ古人の一種の想像に過ぎず、その実は信じる事ができないものである事が分かる。
しかしながら、中国の歴史上で、死体保存が数百年、甚だしきは千年に達するまで腐朽しない例は、かえって記載に乏しくはないのである。『水経注・湘水』中で、『世語』の中のこのような一つの事を引用して述べた。三国時代、魏国が東呉を滅ぼしてしまった後、魏の南蕃校尉呉綱は、安徽省寿県<徐州の南方と揚州の西方を結ぶ地点で、准南市の西隣り>で、春に元東呉側の老人ふぜいと会ったが、その人が一度顔を合わせた第一句の話は、即ち、「あなたの体格や容貌は、なんと長沙王呉芮に似ていることよ! ただ背丈がやや少し低いだけだ。」と言う。呉綱は、聞いて不思議に思い、気ぜわしく「呉芮は私の十六代の先祖であり、既に死んでしまって四百余年、あんたは、どうして私の容貌が彼に似ていると知るのか?」と尋ねる。その人は・「実を申しますと、四十年余り前、東呉が、臨湘で孫堅<呉の大帝(孫権)の父>の廟の修築を為したが、木材を必要とし、呉ゼィの墓を掘り開いてしまい、棺椁を取り出したが、私はその仕事にあずかり、かって自分の目で呉ゼィの死体の容貌が生きているようなのを見、衣服はやはり少しも朽ちていなかったよ!」
と話す。
後世の読者が、類似のこのような記載を見掛けると、総体的に、どうも誇張の気味があると思い、真であるか偽であるかと、大多数の人は半信半疑である。
完全保存の女性の死体

馬王堆一号墓中に、保存が完全で良好な女屍
しかし、右眼のまぶた上で、なお良い幾本かのまつ毛を保存していた。鼻骨・鼻中隔は正常で、外鼻は傷痕が無く、下がりへこむ現象も無い。左耳の内側は、ごく薄い鼓膜が依然として完全良好である。現存する歯は、十六個で、部分的に歯冠は磨損が甚だしい。手指上には、小さい一塊りの黒褐色の手指の爪を保存した。右大腿部の外側の一塊りの皮盧上に、はっきりとした毛穴を見かける事ができる。足指上に、指紋も大へんはっきりしている。X線放射を用いた検査では、全身の骨格は完全に整い、両側が対称的で、鼻骨及び籽骨〈種子状〉まで、すべて識別でき、外形は現代の人骨と何の違いもない。全体の外貌に従って観察すると、眼のふちに眼球が突出した以外に、口の開き広げ・舌のやや露出・直腸の垂脱等の、死後早期に腐敗した現象の他は、ほとんど新鮮な死体と相似ていた!
一九七二年十二月十四日、七、八か月の防腐処理後において、中国の医学や科学の専門家は、その他の学科の強カな支持と協同作業のもとで、古屍に対する解剖的研究を進めた。この科学的研究資料を永久的保存とするために、北京科学教育電影製庁廠〈撮影所〉が、特別に全体の解剖研究過程を入念に撮影し、カラー映画フィルム「西漢古屍研究」を製作した。我々は、スクリーン上で目にする事ができる。
続いて、医学専門家の敏捷で熟練している操作を行ない、古屍の頭骨は穴をあけて開いたし、腹腔と胸腔は切開したが、腔内器管は、はっきりと人々の眼前に露呈された。
脳の外面にある脳膜は、依然として完全で良く包み、脳は明らかに縮小して落ち込んでしまい、既に散り砕けて「豆腐のおから」状を成し、わずか頭部腔の三分の一ぐらいを占める。
胸腹腔内の器官は、心臓・肺・気管・肝臓・胆嚢・胆管・膵臓・脾臓・食道・胃・腸・腎臓・泌尿器系統・内部の生殖器官等の如きは、すべて割に完全に整った外形を保存し、そのうえ、相互の位置が基本的に正常で、ただ各臓器がみなそれぞれに縮小して薄く変わっているに過ぎず、重量が半分より多く減った。四肢や体内の血管は、結構がきちんとし、腹壁の順序がはっきりしている。皮下脂肪は豊富で、黄色あるいは黄褐色を呈する。極めて腐敗し易い淋巴管は、依然と存在し、さらには、頭髪の如く細小な肺部迷走神経の塊りも、またやはり明らかに数えられる。
食道内に、一個の紅褐色の物を発見したが、胡瓜の種子である。外形は現在のと全く同じ<瓜ふたつだ>。
「捜索枯腸」<生気のない腸内を探る>を経て、また腸や胃の中で多くを探し当てたが、総計百三十八粒半ある。
古屍の外形と皮下脂肪の分布から考えると、生前は比較的に太つていて、栄養が良好である。婦人科の検査は、彼女が生前に出産した事があると示した。各項目の検査結果を拠り所にして推断すると、彼女の死亡年齢は、五十歳ぐらいにある。
現代の科学技術を用いて観察し、分析すれば、器官を支える繊維性の結締<結合>組織の保存は、最も良い。結合組織中において、主要な地位を占める<にかわ(ゼラチン)が基の>膠原繊維は、縦横に交錯した
り、束状を成して排列しており、輪郭が異常にはっきりする。
電子顕微鏡の下では、その同期性の帯状の組み立てが十分にはっきりとし、ほとんど新鮮な死体と異ならない。全身の細胞が既に基本的に解体された状況下において、なお各種類型の細胞の残存まで観察できる。特に軑骨の細胞であるが、電子顕微鏡下において、細胞膜・紬胞核と、その他の精細なマィクロ的な組み立てまで見る事ができる。ある種の重要な生物的な高分子は、膠原蛋白、肌肉蛋白、頭髪α角蛋白、ある少しの脂類・多糖等の如く、平均に一定の程度で、それらの組み立てと性質を保存した。赤血球は、現在でも依然として元々の円形を保ち、それらは三つ、五つと一しょに集っている。静脈血管内に二つの小さく凝固した血の塊りを利用し、及び古屍の肌肉・胃・肝臓・頭髪等の組織から採取した見本から、血液型を測定し、A型(かつらはB型)であると証明した。
各領域の病理的検査は、死者が生前に患って、多種の疾病があると確定した。甚だしい冠心病で、左冠状動脈の一部分の管腔が、ほとんどふさがれている。全身性動脈粥様〈かゆ状〉硬化病である。深刻な多発性胆石症で、胆の総管末端に蚕豆大のような結石があり、肝管が集合した所も、一塊りの黄豆〈大豆〉大の結石がある。この他、なお胆嚢の先天的奇形がある。左上肺に結核カルシウム化の病巣がある。右前の肘骨折の奇形の癒養、第四腰椎の間隙変窄〈すきまが狭い〉、骨質増生、<住>血吸虫病<住血吸虫が静脈・門脈に寄生して血液を吸う。中間宿主はミヤイリ貝。>、蟯虫及び鞭虫の感染がある。明らかに、以上の病気は、前の三項目が主要なもので、死因との関係は、一そう画接的で密接である。
死者の年齢は、高いという程でもなく、皮下脂肪が豊かで、高度な老衰の現象でなく、自然の老死であるとは言えない。何かの暴力による致死の跡かたも見当たらない。皮膚上には、久しく病床に臥した後に、よく見かける褥瘡〈床ずれ〉が現れず、かつ消化管内にまだ色彩が新鮮な瓜の種子があり、考えてみると、この地位が尊い婦人は、多分、ある種の急病か、あるいは、ある種の慢性病の急性発作のためであり、甜瓜を食べた後、長く経たずに死んだようで、死亡時期は、当然瓜が熟する季節にある。上述の主要な病症を拠り所にして、胆絞病により冠心病<心不全>の発作を引き起こし、死に至った可能性が最も大きいと推断する。
内棺の中の死者が握っている絹包と、墓中の竹笥内に発見された香料の薬草で、辛夷<こぶしの花つほみ>・茅香〈こうぼう〉・桂皮・花椒<さんしょう>・干萋〈乾しょうが>・高良しようが等があるのに関連し、『黄帝内経』の記載を拠り所にすると、多くは、寒痺〈急性関節風湿痛。リューマチス〉が療治するとして必要とされるのであり、そのうえ、古代に言われた寒痺の心臓麻痺は、症状が現代人が言う冠心病<冠状動脈血栓症・硬化症>と似ている。これらの薬の材料は、当然死者が生前にいつも服用していたのであり、死んで副葬したと考えている。これも、彼女が主に冠心病によって死んだという、一つの傍証にする事ができる。
古屍体は、二千百余年を経過したが、依然として保存が非常に良きを得て、死者の疾病と死亡原困について、一定の判断をするまでに至り、これは、世界の死体保存の記録中で、非常に珍しいものである。それは、保存されて来た干からび状を呈する「木乃伊」と、表面がロウ製模型の有形の肉体に似る「屍蝋」に対して、はっきり区別され、皮膚が皮革状・骨質を呈し、既にカルシウムが脱して軟化し、そのうえ切断し易い「鞣屍」〈なめし皮方式〉と同じでもない。これによって、科学専門家は、分類上において、当然この類の屍体を「湿屍」と称しなければならないと考え、「馬王堆屍」と命名している。
〈訳者注>平成四年(一九九二)三月の報道によると、ドイツで百余年前の冷蔵死体が、氷河中から発掘されたとか言う。これは、「冷凍屍」とでも名付けられよう。それにしても、生き身のような二千余年前の「馬王堆屍」即ち湿屍は、実に驚異的な事跡である。
古死体保存の防腐学
この古屍を保存して来る事ができた原因は、結局何であるのか?現有の研究資料と考古的発掘の実例を根拠に考えてみると、基本的原因は、密閉して深く埋め、長期的酸素欠乏の環境を造成した事である。棺液の湿潤と抑菌作用も、おろそかに見てはいけない素因である。
医学上から言うと、死体の腐敗は、主として腐敗細菌の作用によって、屍体の蛋白質を分解させるのである。腐敗過程の最終結果は、即ら、全部が腐れて溶解し、複雑な有機体を簡単な化合物と無機物に変成するのである。腐敗細菌の生存と繁殖には、一定の温度・湿度・空気・栄養物質等の条件を必要とする。死体の腐敗を防止しようとするなら、二つの重要な措置は、腐敗細菌の生存条件を改変させ破壊して、これを生存できないようにさせる事と、防腐薬剤を使用して、細菌を殺し滅す事である。
馬王堆一号漢墓の葬制から考えてみると、衣衾〈死者に着せる衣服と被せる夜具〉の制度と『儀礼』・『礼記』に記すところは、大体対照するに足るとする事ができる。これによって、古代の喪葬制度に関する事を拠り所にする事ができ、当時、この女屍〈女の死体〉に対して採った防腐措置を推定できる。記載によれば、貴族の死後は、香草を用いて香湯や薬酒に煎じて製し、死体に行水〈入浴〉をさせ、これを「香美」にさせて、汚れを去るとある(『儀礼・士喪礼』・『周礼・小宗白・鬯人』で分かる)。これの後、すぐ肴物と装身具を着けてゆき、それは、喪礼中にいう「襲」と「殮」<更衣と納棺の意〉(小殮・大殮を含む)とである。女死体の出土時の状況は、正にこのようであった。顔の部分は、被せて軽く覆い、全身は、各式の絹製品の着物・衾被及び絹や麻の織物の約二十枚重ねで包んでいて、外側は、さらに九本の絹帯〈組みひも〉を用いて厳密に縛りくくっていた。このようにすると、昆虫の屍体への侵入や、口や鼻等の部位に産卵して、うじを生じるのを防止でき、なお空気を隔離するのに助けがあり、死体の早期腐敗の過程を阻止停滞させるのに、かなりの作用がある。死体を地面に留めて行なう喪礼のこの時間は、『士喪礼』等の礼書上の記載によれば、古代の喪儀中に既に氷盤・氷水盤等の器具を使用して、屍床の下側に置き、塞屍〈冷やした死体〉によって腐れを防いだ。当初は、ダィ候家も、たまたま類似の塞屍〈氷で冷やす死体〉の処置を講じたろうと考えられる。停屍〈死体を留める〉の時間は、按ずるに、『礼記・王制』上の規定が、「天子は七日にして殯し<死人を埋葬まで納棺して置き、賓客として待遇して」、七月〈七か月〉にして葬す。〈注、以下原文のまま。〉諸侯五日而殯、五月而葬。大夫・士・庶人三日而殯、三月而葬。」とあり、これにより考えてみると、ダィ侯の妻の停屍は、多くて五日を過ぎず、すぐ棺を封じ保管して置く事を要し、しかる後に吉日を選び埋葬する。「妾辛〔追〕」(即ら女屍)の棺木は、非常に研究され、内外に漆を塗り、そのうえ、蓋の口は、さらに膠漆を用いて封じ固め、そこで、屍体〈しかばね〉は、密閉の条件下に置かれる。棺内の空間が、死体及び包み物でふさがり満たされる事によって、残る空気は、大へん少くなる。屍体の初期の腐敗過程と棺内物質の酸化過程は、非常に速く棺内の酸素を消耗してしまい、酸欠環境を形成する。もし、死体の入棺前に、少しの酒を注ぐか、あるいは棺内に酒を注いでいれば、一そう檜内の酸素消耗を速くさせる。屍体の質敗過程は、その結果、次第に遅らせ、最終的に停止してくる。以上が、停屍から入棺までの可能な状況である。
重ねて、墓葬条件を考える。一号墓の構築は、浸水力において大へん劣る〈っまり、浸水を防ぎ易い〉第四紀網紋紅土(長沙では俗に宋加子土と称する〈赤土〉)の〈地〉層中にある。墓坑の深さは16メートルに達し、墓口の上に封じ土を加えると、深さが合計20メートル余りある。墓底は、もう石砂層に接近する。墓外に沁みこむ少量の水分は、石砂層を通って押しのけて漏れ、かつ水たまりが積もるのを招かない。深く埋まる事によって、光線の照射を隔ててしまい、有効に地面と大気は隔離し、徒って、墓室に外界の気侯変化の、それに対する影響を減少させたし、合わせて、摂氏十八度ぐらいの相対的恒温を保持した。積み重ねて密閉する組合わせの棺は、外に木椁があり、墓坑の深い所に置かれた。木椁上下の四周は、一万余斤の木炭を詰めてふさいだが、木炭は防湿作用がある。木炭の外側は、また0.6〜1.3メートルの厚い白膏泥を用いて、詰めふさいで封じ固める。白膏泥の主要成分は、二酸化硅素・三酸化〈アルミニウム>、及び少量の酸化鉄であり、成分と性質は、陶土に接近し、質地がきめ細かくて、粘性が強く、可塑性<土像を作れる性質〉が良く、極めて立派な密閉性能を持つ。これは、内外の空気と水分の流通を阻害してしまい、密閉の墓室を形成した。
すべて墓坑は、粘土を用いて層を分け、突き固めて詰まり、極めて堅固である。墓室を密閉する事によって、室内の酸素は、次第に副葬品中の腐り易い魚や肉等の食物と、その他の物質の酸化過程で消耗されて、ゆっくり墓地内の酸素欠乏を引き起こした。同時に、各種の有機物は、酸素がない条件下で、甲カン〈炭素原子数1のメタン〉や菌の作用により、可燃性気体を発生し、主として沼気〈メタンガス〉である。長期の酸素欠乏・無酸素、及び細菌それ自体の代射産物の累積は、細菌の死亡を引き起こし、有機物の腐敗過程と副葬品の損壊や変化が、早速停止に向かう。深理めと白膏泥での密封によって、墓室環境は、棺木を保存するのに腐朽を招かない事と長期に屍体を保存する事について説明するならば、確かに極めて有利となる条件である。
解放餉、長沙地区は、墓をあばいて盗むのが習慣となった。かつて、多くの一号墓と同様の可然性気体を蓄える「火洞子」〈火を起こす洞穴〉が掘り出された。ある火洞子は、突き開けられた後、火が付き、藍色の火炎が燃え立ち、高さは数メートルに達し、そのために墓盗人を焼き傷つけた事がある。これらの火洞子〈可燃性洞穴〉は、すべて白膏泥を用いて墓室を築成し、密閉した木棺墓であり、随葬〈副葬〉器物の保存状況が、みな比較的に良く、漆器は常に完全で新品のようで、絹織物の色彩はあでやかである。若干の火洞子の中に、まだ死体を存有したのかも知れないが、盗墓時に墓室を掘りうがった事により、空気が中に入り、解放後に新しく整理される時まで待って、即ち、やっと骸骨だけを見るに終った。
深埋め・密閉の基本的原因以外に、棺液(重さ約80キログラム)は、屍体を保存する作用にも、うなずける物である。棺液は、茶渇邑を呈し、化学分析によれば、酸性(PH5・18)で、比重は1,032であり、乙醇〈乙は、炭素原子数2〉、即ら酒精〈エチルアルコール〉(0・11%)・乙酸、即ら酢酸(1.03%)、及びその他の有機酸、沈殿物及び浮懸物中に大量の硫化水銀(朱砂)〈印泥原料の類〉を含有し、割合に強い抑酵(蛋白水解酵素)作用と軽度の抑菌作用を持つ。この種の棺液は、屍体を浸し漬けて、腐溶を防止するのと、屍休を保持する湿潤に有利となる。
棺液の一部分は、屍体の初期の腐溶と分解から起こる「屍解水」と考える。墓室中の湿度が高い事によって、気体が液の分子を助けて、ゆっくり椁・棺・漆の表面に透み込んで棺内に浸透し、長い日月の間に積み集めて出来上がったのである。ところで、棺液中の乙醇<アルコール>・乙酸〈酢酸〉の、このように多い含有量に従って考えてみると、当初は、やはり死体を包む織物上で、あるいは棺内で、薬酒を散布した事があるのかも知れない。酒で腐れを防ぐのは、古代喪礼の具体的条文に見ないが、しかし、従来の伝聞や逸話は、記載の無いものはないのである。元代の『説郛』中に収集の、唐宋医奇の『梅妃伝』は、なんと唐の玄宗〈七一三〜七五五〉の梅妃が、安史の乱〈天宝十四年(七五五)から続いた安禄山・史思明の反乱〉に死んだのを記し、反乱を平定以後、唐の玄宗は、梅妃の夢の告げ知らせに応じて、梅樹の下で彼女の死体を掘り当てた。
「包むに錦のしとねを以てし、盛るに酒槽を以てす。」解いて開き調べると、脇腹の下で致命的な傷跡が見つかった。梅妃の物語は、虚構から出ているが、ただ、その中の「酒槽に盛られる」の事情だけは、私たちが、馬王堆一号漢墓内棺の棺液中の酒の由来や根源を分折するについて、あるいは啓発される可能性を持つだろう。
内棺と棺液中の朱砂に至っては、その一小部分は、織物の朱砂染料、及び内棺の朱漆の中から分離して出来て、その余りの物も当初に置いた物であるかも知れない。馬王堆の女屍出土〈一九七二年〉の後に、一九七五年、またも湖北省江陵の鳳凰山一六八号漢墓中で、一体の漢の文帝十三年(B・C一六七)に埋葬した男屍を発見したが、刺激性の悪臭がある濃赤色の棺液内で、浸漬していたのでもあり、全身がぬれ湿っており、外形は基本的に完全に整う。棺内の堆積物中に、朱砂・黒大豆等がある。これは、これらの措置が一種の意識的防腐処置である事を説明している。千年もの古屍が今まで保存されたのは、決して偶然ではない。それは、中国古代人民の医薬・防腐技術についての認識の水準と、収められた驚くべき成果を見せ付けた。